「最後で最大の諸子百家」を彷彿させる諸子百家というと、法家、儒家、墨家、道家、縦横家、農家、名家等があるが、そのように分類することから、偏見が生まれることはあり得る。法家である韓非子が道家の「老子」を引用解説するのはおかしいというようなものがそれだ。著者は、従来の諸子百家の分類は、春秋戦国期の歴史発展の理解を妨げるだけでなく誤解の原因になると他の著書の中で主張していた。諸子百家は並列して論じられるものではなく、哲学としての「老子」を法家である韓非子がみずからの政治論に応用することは充分考えられるという立場である。加えて、本書のあとがきに述べられているように、日本の研究者も、「本来はこういう意味だ」という説明を付すことで原典の字句を別の字句に置き換えて読み直すということをしているとのこと。清の考証学派の悪い影響のようだ。以上のような、偏見や意図的な読み替えをせずに、著者が「韓非子」を解説したものが本書ということになろう。上巻は、君主心得帖のようなイメージであったが、下巻は、洗練かつ体系化された支配体制論となっている。天下統一が秒読み段階に入ってきた状況を反映したからであろうか。名君、名宰相の評判を有する人物をも容赦なく批判の対象にあげる。慎到の「勢」を「治勢」という明確な形で定義し直し、申不害の「術」と商君の「法」を「法術」に統合する。さらには、「老子」を援用しつつ、政治の目指すべき境地を示す。内容として、それはまさしく春秋戦国時代の良き遺産を引き継ぎ総合体系化したものと言える。そして、それらを秦王政(後の始皇帝)に命がけで堂々!と説く韓非子の姿はまさに「一流の軍師」である。春秋戦国の遺産を引き受け、見事に体系化したその歴史的使命観と「智術能法の士」としての自信を強く感じ取ることができる。好著である。
「矛盾」「守株」など数多くのエピソードで人間性への鋭い洞察を示しつつ、そこでは常に新しい政治のあり方が問われていた。この世は「天命」という不変の脚本の下で繰り返されるドラマだとする伝統的な史観を、まっこうから打ち破り、歴史の「変化」を信じて、韓非子は法始主義による政治改革を秦の始皇帝に説いたのである。