敗者も勝者もない歴史大保原の戦いに勝ち、束の間の平穏に我が身を振り返る懐良親王。一方で不遜なまでの重厚感をもって読者を魅了した、主人公懐良親王最大の敵たる少弐頼尚は、大保原の戦いに敗れ、心静かに少弐氏の行く末へ瞳を凝らしていきます。ここに勝者と敗者の対比はなく、互いの胸に去来する戦の後の現実の重みが、ぐっと読み手の心にも圧し掛かってくるのです。大保原を境とした下巻の戦では、上巻で九州の統一に向けて着々と勝ち進んできた戦とはやや違った趣きが感じられます。それもそのはず。幾多の戦を経て、多くの人物と関わったからこそ懐良が至った無限の夢は、帝の皇子としての使命を負って戦に駆り立てられた頃とは異なっているのです。その夢を理解しそれに賭ける覚悟を決めた菊地武光と五頼治。武士と公家、立場は異なる二人が、懐良を想うがゆえその夢に抱く一抹の懸念と、互いの中に似たものを感じひとつの想いを通わせるシーンに心が震えます。そして、時との闘い。それは老いも含めて懐良と周辺の人々を時折苛み、戦に付き纏う死の気配も徐々に濃厚になっていきます。敵との戦いから己との闘いへ、終幕へ向かう緩やかな展開は、戦闘シーンの躍動感とは打って変わった寂とした緊張感で満たされていて、一文一文の繊細な描写に読者の覚悟も促されます。そんな中で迎え撃つ新たな敵の登場。九州探題・今川了俊は少弐頼尚とはまたタイプの違う鋭い眼を以って懐良の動向を見据え、時を読み時勢をシビアに捉え、足利一門としての己を崩さず、懐良に挑みかかります。無限を夢見る懐良の翼!生えた羽根がひとつひとつもぎ取られるように、少しずつ勢いを失ってゆく征西府。懐良の夢に触れさせるまいと奮戦する武光を突如襲う死。武光という友の死が告げる、ひとつの時の終わり‥‥。けれど懐良は、時の流れに翻弄されたのではありません。想いを繋ぐ者、想いを受け止め支える者、それら多くの人々に導かれて、懐良は新たな道へと旅立つのです。哀愁の中にもなにか清々しい余韻を残すラストに、悲しみはありません。ひとつの時代を懸命に生きた男たちの夢がまだ水面に漂っているようで、心にしみわたりました。